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中国バブルがいつ崩壊するか一緒に予想しようぜwww 第一回

と書いたものの、最近のニュースを見るに、中国の不動産市場は今まさに岐路に立っていると思われる。少し書くのが遅かったかなあ、と思う。

上海における新築住宅販売、過去6年間で最悪の売り上げ、昨年度比5分の1に

違法な闇金融のトラブルが急増中


そもそもバブルとは、何かの価格が経済の実態から大きく離れて上昇している状態である。だが急激な成長を続ける中国において、恐ろしい勢いで土地の値段が上がり続けていたとしても、その土地の価格がファンダメンタルから乖離していると断定することは難しい。
上記のニュースにしても、中国政府の住宅投機防止策が有効に機能し始めたと言えなくもない。
実際、中国の不動産がバブルであるということは、2004年頃から(あるいはそれよりも前から)ずっと言われてきたことであるし、著名な経済学者や経済紙もそれぞれ意見を異にしている。

中国バブルの崩壊をことさらに強調していた一人としては、ヘッジファンドのJim Chanos氏がいるし、日本では大前研一氏が「中国バブルの崩壊は避けられない」という言い方をしている。逆にFinnancial TimesのRanjit Lall氏などは、今後も安定した成長を続けると考えているようだ。

中立的な視点としては、池田信夫氏は「バブルは弾けた瞬間にバブルと分かる、バブルだとマーケットが思った瞬間にバブルになる」と言っており、バブルを事前に判断することは難しいということを説明している。

理論的には、池田信夫氏の言っていることが一番正しいと私は思う。けれどそれでは面白くないので、中国の経済がこれからどうなるのか、その経済の歴史を振り返りながら、自分なりの予想を立ててみたい。Google Earthからも確認できるような巨大なゴーストタウンを見て、これが正常だと思う人もいないはずだ。

バブルであるかどうか、そしていつバブルが弾けるか、そしてどうなるのかは誰にもわからない。少なくともそれを説明できる経済学の論文は存在しないし、もしバブル形成の全てを説明する論文を発表することができれば、ノーベル経済学賞は間違いないだろう。


まずはきっかけとして、過去10年間のSSE(上海ストックエクスチェンジ)の歴史を見てみよう。


すぐにわかるのは、2007年から2008年にかけて、一目見てわかる異常な事態が発生しているということだ。ご存知の通り、金融バブルとその急速な崩壊である。このバブルを売り抜けた人は、いったいどれだけの巨額な富を得たのだろうか。そして、それと同じだけの破産者を生み出した。ただし、金融機関の崩壊という意味では、中国は例外だった。
実はこの金融バブルの崩壊に合わせて、中国の住宅バブルも一度は崩壊の兆しを見せていた。2009年のことである。見て分かるとおり、スカイロケッティングな価格の上昇は一度止まっているのである。

2005年の住宅価格を1000とした場合の中国主要都市の新築価格の推移

2009年当時、世界的に崩壊していく経済の中で、中国は金融危機の実物経済への影響を抑えるため、大規模な金融政策、財政政策を打ち出した。特に内需を刺激するために公共事業は、中央、地方政府を合わせて約22兆元(当時のレートで約300兆円)に及んだ。その景気刺激策で金融危機の共倒れとなる住宅バブル崩壊を回避したものの、それは第二のバブルを発生させてしまったように思われる。


社会を不安定な状態にしないためには、経済の成長を続けなければならない。ただし、過度なインフレも進行している。金利を上げなければインフレは収まらないが、その上げ具合を間違えると一気にバブルが崩壊してしまう。住宅投資と並んで経済を牽引する輸出産業を保つためには元を安く保ちたいが、アメリカなどの圧力がかかる一方、食料などの輸入品の価格高騰につながり、国民の不満は高まっている。
日本を追い越し世界2位のGDPとなったこの国の経済は、まだまだ可能性を秘めているとしても、とても歪な状況である。どうしてこういった状況になったのか。

それは、若き小平がこのパリにて、ホーチミンにパリ一番のクロワッサンを教わっていた時代に、遡らなければならないだろう。

第二回に続く。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

モンマルトルのブドウ収穫祭 普仏戦争とサクレクール寺院と浅田次郎

同じ会社の人事のYさん(同じく日本人でパリ在住)に本ブログを発見、特定されてしまい、しばらく逃避していました。何も言わずに休止して申し訳ありません。開き直って再開しようと思います。
藤沢和希さんとかどうやって特定されずにあれだけ執筆活動を続けられているのか、不思議です。先輩匿名ブロガーの皆さんには、ぜひこつを教えていただきたいものです。


さて、週末にモンマルトルでブドウの収穫祭(ワイン祭り)があり、妻と二人で出かけてきました。
モンマルトルはパリでも有数の観光地のひとつですが、実はこの丘にいまでもブドウ畑が維持されており、毎年この時期に5日ほど収穫祭が催されます。


サクレクール寺院
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モンマルトルのサクレクール寺院は普仏戦争の敗戦から、その犠牲者を悼んで建設されました。
プロイセンの首相ビスマルクは、フランスの電報を改竄して戦争のきっかけを作りましたが、パリへの進軍には消極的でした。結果としてドイツ連合の強硬派に押される形でパリを占領しましたが、その占領政策はパリ人を傷つけたり、パリの街を破壊するようなものではありませんでした。むしろパリ人を困窮させたのは50億フランの賠償金です。このフランスへの賠償金は、その後の第一次世界大戦のドイツへの倍返しの賠償金となりました。これがドイツ経済を破壊させてナチスを誕生させるきっかけとなり、そして第二次世界大戦にも敗れたドイツは、昨年2010年3月にようやく賠償金の支払いを完了させています。

また、ドイツに占領された時期に、フランス政府の不作為に抗議した住民による蜂起(パリコミューン)が起こりました。この蜂起はフランス軍自身によって鎮圧され、一万人以上の市民が犠牲になったと言われています。

そして現在、フランス人はこれら犠牲者を悼みパリのひとつのシンボルともなっている白亜の聖堂を建て、悲劇を乗り越え、多少乗り越えすぎて、ワインを飲んでいるわけです。

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日本のお祭りと似たようなものです。数多くの出店が並びます。
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エスカルゴとワイン! 冷凍だけどね、、。
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牡蠣の出店
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白ワインと一緒に
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フォアグラと鴨肉とセップ茸のサンドウィッチ
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ラクレットチーズとイタリアンハムのサンドウィッチ。食べてばかりですな。
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テルトル広場 相変わらずの混雑ですね。
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浅田次郎 「聖夜の肖像」で、純一郎が若かりし頃に絵を描き続けた場所がモンマルトルのテルトル広場です。浅田次郎は「蒼穹の昴」をはじめとして一番好きな作家の一人なのですが、いかんせん彼は不倫が大好きなのではないかとい思うぐらいそういった話が多いことと、時々理解しかねる恋愛感情があり、首をかしげてしまうことがあります。本書の「聖夜の肖像」でも、「ちょっとそれは現在の旦那に失礼なんじゃないの??」と思っていたところに、同じような感想を持たれていたトビウオ様のブログを拝見して、安心した覚えがあります。



モンマルトルの丘からパリを眺める。もうパリは冬の空です。
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テーマ : フランスの政治と社会
ジャンル : 政治・経済

旅行記 ブダペスト おまけ お勧め観光地

いくつかブダペストの見所を少し紹介します。


なんといっても一番の見所は王宮周辺、ケーブルカーで上がる事ができます。
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王宮の前にて
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王宮の近くの旧市街の街並み
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かわいいポストです。
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旧市街の街中に、地下迷宮があります。残念ながら休日で休みでした、、、。
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旧市街の教会前の広場。町を見下ろしながらビールが飲めるカフェがあります。
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ブダペスト中心の教会
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そして英雄の広場、それぞれの像に戦争と平和など、込められた意匠があります。
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ちょっと変わった水上バスがありました。乗るよりも流されている姿を橋から見るほうが面白いかもw
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そして温泉です!
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※写真の彼は私ではありません。

観光本にも載っていることですが、いくつか温泉の注意事項を。
1. 水着が必要です。
2. ロッカーの使い方が難しいw 説明も難しい。人のやっていることを覗きましょう。
3. サンダルがあると楽です。
4. タオルは借りることができますが、高いので持参しましょう!
5. 温度は高くないので、プールに入りにいく感覚のほうがしっくりきます。

やっぱり日本の温泉が世界一ですよね。

旅行記 ブダペスト 後編 バルトーク弦楽四重奏曲第六番 Mesto

ラウル・グスタフ・ワレンバーグ、ルドルフ・カストナーとは対称的に、ベラ・バルトークはハンガリーに広がる反ユダヤ主義を嫌い、膨大な民族音楽の研究資料とともにアメリカに渡る。その後、故郷の地を踏むことがないまま、アメリカにて白血病で命を落とす。しかし、愛したハンガリーの惨状を目にしなかったことは、彼にとって幸いだったのかもしれない。


1945年、ブダペストはソ連赤軍に占領された。赤軍は占領下において、居住地域に侵入し、略奪と放火、破壊を繰り返した。大使館等の中立な建物にも被害は及び、五万人以上の女性が強姦された。大戦終了後に占領地域で赤軍により行われた残虐行為としては、ドイツにおける一般人67万人の犠牲者、200万人の強姦被害者に次ぎ、満州、千島樺太に並ぶ惨状であった。

ソ連赤軍の「赤」は共産主義国家が樹立されるまでに流された労働者の血を意味している。だが現代の視点からすれば、その赤は赤軍が虐殺した人々の血そのものだ。

そのソ連赤軍とともに、亡命先のソ連から帰国したのがラーコシ・マーチャーシュである。かつてハンガリーに存在し、すぐに崩壊した共産主義政権の生き残りであり、コミンテルンの指導者の一人でもあった。ラーコシは戦後民主的に成立したハンガリー共和国に対してソ連の支援を受けてクーデータを実行し、共産主義国家を樹立する。ハンガリーはソ連の衛星国となり、ラーコシは彼が崇拝するスターリンに習い、徹底的な弾圧を繰り返した。彼に反対意見を述べるもの、反対意見を述べると思われる者は投獄、処刑された。同じ敗戦国である隣国のオーストリアと異なり、ハンガリーは急激に貧しくなっていった。

1953年、スターリンが死去し、非スターリン化の流れはハンガリーに及んだ。スターリンのシンパであったラーコシはソ連共産党の不評を買い、失脚する。彼の後を引き継いだナジ・イムレは農業の強制を緩め、宗教の弾圧と強制収容所を廃止した。またワルシャワ条約機構から脱退し、自由主義、民主主義路線を推し進めたが、ソ連の圧力を受け失脚する。
1956年、共産主義による圧制と、ソ連からの支配に対する不満が頂点に達し、ハンガリー全土で民衆による蜂起が起こる。ハンガリー革命である。一時的にソ連赤軍の撤退を勝ち取るものの、ソ連は再度ハンガリーへ侵攻し、蜂起を鎮圧した。何千人もの市民が殺され、25万人が難民となった。またルーマニアに亡命していたナジはKGBに拉致され、処刑される。

1957年、日本社会党の党全国大会において、このハンガリー革命について「資本主義陣営による反革命的な武装蜂起であり、ソ連による鎮圧もやむをえない」とする意見が多数派として採決されている。村山内閣による方針転換で社会党は瓦解したが、その流れを組む民主党が一部そういった社会主義的思想を維持しながら日本の政権党であることに、私は大きな失望を感じざるを得ない。


1989年、ハンガリーは民主化を実現し、2004年にはEUに加盟した。共産主義の崩壊とともに、バルトークの亡骸は、マエストロ、ゲオルグ・ショルティの努力により、彼の愛したハンガリーに運ばれた。


ブダペストの国会議事堂は、かつての巨大なハンガリー帝国を偲ばせる大きさだ。
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テーマ : 歴史
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旅行記 ブダペスト 中編 のルドルフ・カストナー編

ルドルフ・カストナー

1944年6月、ワレンバーグが到着する一ヶ月前、1685人のユダヤ人を乗せた列車がスイスに到着した。シオニスト運動のリーダーであるルドルフ・カストナーとその家族、そして世界シオニスト機構の指導者達である。カストナーはイスラエル建国後、イスラエル政府の高官となる。なぜナチスが支配するハンガリーから脱出が可能だったのか。カストナーとアドルフ・アイヒマンの間には、SS長官のヒムラーも含めた密約があったとされる。
またカストナーはナチスの中佐、クルト・ベッヒャーに実務的な支援をもらい、終戦後も交際を続けた。ベッヒャーは戦犯としての裁判においてカストナーに擁護されたため、アイヒマンとともにユダヤ人移送を実施したにも関わらず、罪に問われることはなかった。

1952年、カストナーはナチスと取引を行い、同胞を裏切る見返りに保身を図ったとしてハンガリー系ユダヤ人に告発された。しかし、最高裁の判決が下る前に、カストナーは自宅前で射殺される。彼とアイヒマンの間で何が約束されたのか、証明することはできなくなった。


ユダヤ人の救出のために命を賭けたワインバーグは、ナチスではなく、仲間のはずのソ連に拉致され、獄中死した。ユダヤ人でシオニスト運動のリーダーであるカストナーは、ナチスと取引したとされ、イスラエルで暗殺された。
たかが60年前の出来事を、われわれはいまだに、説明することができないでいる。


カストナーの暗殺から3年後、アルゼンチンに逃亡していたアイヒマンはイスラエルに拉致され、尋問と裁判の後、処刑された。しかし、彼がパレスチナに訪れたのはこの裁判が初めてではない。1937年に、彼はパレスチナに招待されていた。彼はシオニストの指導者の一人であるベングリンと親交があった。アイヒマンはパレスチナからの帰国の際に、シオニストがナチスの政策に非常に喜んでいると報告している。

ナチスのアイヒマンはユダヤのシオニストを同じ人種主義者という観点で受け入れていた。
彼はこう述べている。

「我々が欧州からユダヤ人を追い出さなかったら、イスラエルはここには作られなかった」

「私は実際ユダヤ人入植者が自らの国を作り上げている様子にきわめて強く印象づけられた。私自身、自分が理想主義者であったから、またそれだけユダヤ人の生きようとする捨て身の意志を賛美した。それに続く数年間、私は交渉相手のユダヤ人によく語った。もし私がユダヤ人だったら、狂信的なシオニストになっていたであろう。違ったことを想像することは不可能だ。実際、私は考えられる限り最も熱心なシオニストになっていたであろう」

ユダヤ人を迫害したのは誰だったのか。ナチスの機関紙にシオニズムの記事が掲載されていたことは、教科書には決して載らない。

ナチスとソ連の戦いの傷跡を今に残す。
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ジャンル : 政治・経済

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Author:shingo
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フランス在住

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